救援者たちの証言 -福島県外からの救援-

2013/11/25

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日本赤十字社では原子力災害時に対する明確な行動基準と安全確保に必要な資機材を
持ち合わせなかった。そのため活動現場から一時的な後退を余儀なくされた。
自らの使命に反するつらい意思決定をした救援者たちの証言を掲載しています。

<新潟県支部>
長岡赤十字病院 救命救急センター 江部 克也
長岡赤十字病院 ICU 大川 玲子
長岡赤十字病院 3A 海發 悟
長岡赤十字病院 第一医事課 土田 宏昭

<滋賀県支部>
長浜赤十字病院 社会係長 金澤 豊
長浜赤十字病院 看護係長 北野 裕司
長浜赤十字病院 医事統計係長 丸山 直樹


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東日本大震災支援(平成23年3月11日~13日)


長岡赤十字病院 救命救急センター 江部 克也

~~~ 過酷なミッションだったが、このメンバーとなら、また行ける ~~~

 長岡赤十字病院は震災発生当日にDMATを出動させ、福島県立医大附属病院に向かった。その後、日赤の救護班として活動することになったが、原発事故の発生により、福島での活動を打ち切らざるを得ず、その後宮城県に向かった。被ばくを避けるための判断ではあったが、被災地の方々に対する心苦しい気持ちが残った。

 震災当日の出動は、DMATとして、発災約2時間後、救護第1班よりやや先行して出発しました。途中の道路事情もあり、夜中になってようやく参集拠点である福島県立医大に到着しました。
 すでにかなりのDMATチームが集まっていましたが、今回の震災ではDMATの需要は少なく、南相馬市から多発外傷患者の搬送を行っただけで、待機が続きました。
 翌朝には日赤医療センター・みなと赤十字とともにDMAT隊としての撤収手続きをとり、日赤救護班として活動することにしました。赤十字からの指示は、後続の名古屋赤十字救護班とともに、海岸沿いで宮城県境にある新地町に救護所を立ち上げる、というものでした。
 新地町役場に着いてみると、周辺は比較的落着いていましたが、そこから約1km先の海岸までは見渡す限り泥と瓦礫の平原でした。
 長岡赤十字救護班が指揮をとり、町長への到着報告、役場内の救護所設営などを行いました。周辺の避難所に約1,500人の避難者がいるとの情報があり、各救護班から医療チーム編成し、派遣しました。
 最後のチームの出発間際に、町から内々に「原発が<爆発>するかもしれません」と言われました。この時点では危険についての報道はなく、赤十字本社も情報をつかんでいませんでした。まもなく名古屋赤十字が到着するとの報告があり、先着隊の責務として情報収集が必要であったため、結局全チームを送り出してしまいました。しかし、その直後に「至急離脱」の指示が赤十字から入り愕然としました。
 離脱を決定し、ちょうど到着した名古屋赤十字をすぐに避難させました。役場内の救護所を撤収し、本部要員として残した各赤十字のメンバーには、派遣チームが戻り次第すぐに出発できるよう車内で待機してもらいました。
 しかし、巡回チームは連絡の暇がないほど忙しかったようで、連絡がとれないままに爆発は起きてしまいました。救護所に割り当てられた役場の部屋で、ひとりだけで連絡を待つのは、本当につらかったです。

 情報が乏しい段階では、人員を分散させない、派遣する場合は定時連絡を入れさせる、などの配慮が必要でした。原発からは30km以上離れており、結果的には被ばくもありませんでしたが、「原爆のように爆死するんじゃないか」と思った隊員もいたことは、リーダーとして反省しています。
 赤十字の公式見解では、自分たちだけ避難するのではなく、情報収集のため転進・・・でしたが、現場では当然そんな解釈はしません。こればかりは、他人まかせにはできず、救護班を代表して町長に撤収を伝えましたが、その時の表情を忘れることはできません。
 整然と後始末をして、きちんとあいさつをして撤収したはずでしたが、現地では見捨てられ感が強く、現在、町と赤十字の関係は、あまり良好ではないそうです。
 万一の被ばくを避けるために撤収の判断は必要でしたが、今でも悔しい気持ちはあります。他の隊員も、「またくるからね」と言ったまま撤収したことを、気に病むことがあるそうです。
 なお、差し迫る状況の中、できるかぎりの退避を勧めましたが、すべての救護班は、それぞれの隊員がそろうまで現場に留まっていました。安全面からは感心できませんが、心意気には感謝しています。

 もうひとつの問題点は、とにかく早く現地に行こうとあせったあまり、生活用品の準備が不足していたことでした。
 中越地震のことが頭にあり、周辺のコンビニで調達できるだろう・・・と考えていたのか、水とゼリー程度は積んでいましたが、菓子パンを1個食べただけで被災地に乗り込んでしまいました。
 発災当夜は菓子パン1個と福島県立医大でいただいたおにぎり1個を食べただけでした。翌日は、夜に退避先の宮城県白石市役所でいただいたカップめんとおにぎり1個を食べただけで、朝昼は抜きでした。3日目の朝は持参のゼリーを1個程度で、昼は名古屋赤十字救護班から缶詰やレトルト食品をいただきました。
わずかにとった食事のほとんどは、他からの好意でいただいたものでした。

 衣食住のうち「住」にも問題がありました。被災地に迷惑をかけないようにと、2日目の夜は、退避先の白石市役所の駐車場で車中泊でした。しかし、あまりに寒く、エンジンはかけっぱなしで暖をとりながら眠りました。乏しいガソリンを消費しているうえに、周辺には騒音と排気ガスをまきちらしたのです。
 野宿できる装備とまではいかなくても、季節を考えると寝袋などの準備をしておけば、車中泊であってもエンジンは切ることができたかな、と反省しています。

 肉体的にも精神的にもかなり過酷なミッションでしたが、DMAT隊員として訓練されているメンバーであり、かなりのストレスにさらされながらの活動の中で、ある意味では和やかな雰囲気で活動できました。得難いメンバーであったと思います。
 このメンバーとなら、またいつでも行ける・・・ただし、もう少し周到な準備が必要、というのが結論です。

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DMAT第1班活動記 -出動準備の不備から得た教訓-


長岡赤十字病院 ICU 大川 玲子

~~~ 自己完結であるが故の準備の必要性を感じた ~~~

 今回の災害の大きさを感じつつ、福島へ向かった。その後、日赤救護班として新地町にて救護活動を行ったが、原発事故により撤収となり、宮城県へと向かった。自身を守るためとはいえ数時間で撤収せざるを得なかったことがいつまでも重く圧し掛かった。災害派遣に伴う出動では、準備をしっかりと行うことの重要性を感じた。

 病院からの出動の指示を受け、私たちDMAT1班は3月11日16:30に病院を出発した。私はそれまでDMATとして2回出動した経験があったが、いずれの災害も人的な被害状況はさほど大きくないと予想しながらの出動であった。

 しかし今回だけは、津波にのまれる建物や車の映像、出動中のラジオからの情報を聞くにつれ、自身の身の危険も感じ、背筋の凍る思いと、強い緊張感に包まれていた。

 車を走らせながら、DMAT本部より福島県立医大・仙台医療センターが参集拠点との連絡があり、福島県立医大へ向かう。通行止めの影響があり、福島県立医大に到着したのは22:30であった。既にDMAT隊が5チーム程先着しており、統括DMATの指示で、携帯電話で近隣の病院へ被害状況確認の連絡・情報収集やEMIS代行入力を行った。近隣の南相馬市立病院が、ライフライン使用不可、病院の倒壊があり、患者受け入れ困難であるという被害報告を受け、当チームは病院支援へ向かう。

 病院では、入り口ホールに寝具や治療のための物品を準備し待機していたが、患者搬入は少なく閑散としていた。当チームは、57歳の女性(右上腕骨骨折・血気胸・左下腿打撲)を福島県立医大へ救急搬送するため、医師1名・看護師1名・ロジ2名で任務にあたった。他の私を含めた3名は、病院支援と情報収集のため、病院に残った。その間病院の厚意で休憩室で横になったが、休んでいる間にも頻繁に余震が起き、TVからは緊急地震速報が流れ、携帯のエリアメールのサイレンで休める状況ではなかった。(隣で休んでいた研修医S先生は寝息を立てていたが、さすが若さがなせる技だ。)

 新潟でも地震が起きたという情報があり、家族は無事か不安で、すぐにでも帰りたい気持ちに襲われた。眠れない夜を過ごし、12日の朝には一旦福島県立医大に引き上げた。

 新潟県支部と連絡をとったところ、相馬市新地町に愛知県救護班がdERUを展開するため、合流して日赤災対本部立ち上げをするように要請があった。DMATとしての需要は少ないと判断し、救護班活動に切り替え、医療センター・横浜みなとのチームと共に新地町へ向かった。TVで電車が「く」の字に折れ曲がり脱線している映像が頻繁に流れたあの町である。新地町は、津波被害により町の半分以上が壊滅状態であり、避難所10か所に1,580名が避難していた。

 はるか遠くに見える海まで見渡す限りの泥地に流された車や瓦礫が点在し、400名以上の行方不明者と死亡者の捜索に追われていた。私たちは役場内に救護所を設置し、他病院救護班と共に避難所の巡回診療を開始した。長岡チームは2か所の避難所で約400名を巡回、外傷2名、不眠・慢性疾患・妊婦など38名の診療を行った。

 しかし福島原発が爆発し、福島県支部・新潟県支部の指示により18:30急遽救護所撤収となった。私たちは「また明日きますね」と言葉をかけながら巡回診療を行っていたというのに、自身を守るためとはいえ数時間で撤収せざるを得なかったことがいつまでも重く圧し掛かった。

 帰院してからも、逃げ帰ってしまった罪悪感に苛まれ、もう一度福島に救護活動に行きたいと思っていたが、後には出動のチャンスはなく、適わぬ思いで終わったことが今でも心残りである。町の人々はどうなってしまうのか?と心配しながら現場を後にし、指示に従って宮城県白石市役所へ向かった。20:00市役所へ到着し、おにぎりとカップラーメンをいただいた。私たちは食料を少ししか持参せず、この日もほとんど食べておらず、一日中トイレにも行っていないことに気付いた。翌日の食事も愛知チームから恵んでいただき、言葉で表せない程の感謝の気持ちであった。準備不足が最大の反省点であった。休息するための毛布や寝袋も持参しておらず、この夜は狭い車内で極寒の中、車の暖房をつけ、着込んで縮こまりながら休息した。(他のメンバーによると、大川は特等席を陣取り、この日はさすがに熟睡していたらしい。)

 翌13日は、地域の保健師と共に、白石中学校300名、白石第二小学校280名の巡回診療実施とこころのケアを実施。外傷1名、不眠・発熱など内科的疾患2名の診療を行い、昼には救護活動を終了し真夜中0:30に帰院した。

 今回の出動は今までのDMAT出動の中で最も長く、精神的にも肉体的にも辛い3日間であった。その原因のひとつには、不十分な食事や休息にもあったと振り返る。災害現場で食事や休息を十分に取ることは難しいが、少しでも生理的ニードを充足するように努めることが大切だ。空腹は疲労を増大させ、睡眠不足は精神的安定を阻害する。

 災害派遣の出動準備に関しては、行く道中で、あるいは行った先で何とかなるという発想は通じない。初動班はどうしても出動準備時間が短く、食料や休息のための準備も後回しに考えがちであるが、自己完結と言う以上は準備をもっと真剣に考えなくてはいけないと感じた。

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初動DMAT活動記録


長岡赤十字病院 3A 海發 悟

~~~ 人と人とのつながりの大切さを実感 ~~~

 震災当日にDMATとして出動し、南相馬市で患者搬送の任にあたった。その後、新地町で救護活動にあたったが、原発事故に伴い、撤退することに。大きな災害に対して人間一人の力はあまりにも小さいが、ともに協力することで初めて結果を残すことが出来ると思った。

 3月11日、病棟で激しい揺れを感じた。病棟の被害状況を確認中に患者様のテレビで東日本大震災の発生を知った。『DMATが出るかな』と思い、すぐに出動準備に入らなければと考えた矢先に病棟の電話が鳴り、「DMATが出ます。行けますか」とのこと。

 災害発生時のために勉強・訓練をしてきて覚悟しているつもりだったが、いざ実際の出動となると様々な不安が頭をよぎった。迷う時間はなく「行きます」と返事をした。

 仕事を病棟スタッフへ依頼して妻へ連絡、装備を準備して病院の救急車とワンボックスカーの2台で出発した。高速道路の安全状況が確認されておらず、津川ICでしばらく足止めされた。集まってくる新潟県内から出動した消防や医療班の何十台もの緊急車両を見て、改めて『大変な事が起こっているんだ』と実感し、それとともに知り合いの救急救命士や他院のDMAT隊員と顔を合わせて心強く感じた。

 福島市内では建物被害は見当たらないが渋滞がひどい。救急車の赤色灯とサイレンを鳴らして渋滞をすりぬけた。参集拠点である福島県立医大に着いた時には夜になっていた。

 DMAT本部にはすでに参集したチームが各地の病院に被害状況の確認作業を行っていた。作業を手伝いつつ、テレビ画面で各地の津波被害や燃え上がる気仙沼の地獄のような報道映像を見ながら、恐怖を感じた。

 初めの任務は南相馬市立病院から福島県立医大への患者搬送だった。南相馬市立病院へ停電で真っ暗な道を向かった。病院に着き、津波にのまれて全身傷だらけの患者様を救急車へ乗せた。家族へ「一緒に乗ってください」と声をかけると、「まだ見つかってない家族がいるんです。探さなければならないので一緒には行けない」と辛そうな表情だった。患者様は搬送中、閉眼して言葉も少なかった。「寒くないですか、痛みは大丈夫ですか」と声をかけることとバイタルサインの測定を繰り返した。

 患者様の気持ちを考えると他にどんな言葉をかけていいのかも分からなかったが、少しでも安心してほしくて、搬送中ずっと傷の少ない肩や手に自分の手をそえていた。無事に福島県立医大に送り届けたときには深夜2時を過ぎていた。不思議と全く疲労を感じなかったが次の任務に備えて救急車の中で仮眠をとり、夜明けの光で目が覚めた。

 3月12日は朝から待機状態が続いて、その時間がもどかしくて長い時間に感じた。そこでDMATから日赤救護班へ転換し、福島県の海岸線の新地町へ向かった。

 海岸に近付き津波の痕跡を目の当たりにした。役場に救護所を設営し、避難所の巡回診療を行った。高齢な避難者が多く常用薬をなくした。夜眠れなくて血圧が高いというような方が非常に多かった。巡回診療を終えて役場の救護所へ戻ると、町長が先生に話があると険しい表情でやってきた。町長は「福島原発が爆発しそうで、もうもたないそうです」と話した。実際、新地町は原発から北に50kmほどのところにある。爆発の程度や被害は報道にあった通りで死ぬほどの危険ではなかったが、側で話を聞いて、『ここは原発からどのくらい離れているのか、爆発したらどうなるのか、死ぬのか、こんなところで死んだら家族に申し訳ないな』などと考えた。頭がまっ白になって全身の血の気が引くのを感じた。その後もう一か所避難所を巡回して、撤退することになった。

 その日に会ってお話をした被災者の方たちの顔や言葉を思い出して、情けなくて悔しい気持ちだった。避難所を出る車の中で、撤退する後ろめたさと残されていく現地の被災者の方々のことを思うと、周りを歩く被災者の方たちの顔をまともに見ることができず目を伏せた。原発から逃げるように北上し、20時過ぎに宮城県白石市役所へ到着した。

 市役所でカップ麺とおにぎりをいただいて、久しぶりの暖かい食べ物でほっとした。そのときまで、その日に何も食べていないことに気付かなかった。その日は車の中で翌朝まで熟睡した。

 3月13日、市役所にdERUを設置し、新潟へ帰ることが決まって昼に市役所を出発し、帰院した。

 今回、初動救護での3日間は、多くの人たちに支えられて活動させていただいて、人と人のつながりの大切さを実感した。大きな災害に対して人間一人の力はあまりにも小さいが、ともに協力することで初めて結果を残すことが出来るんだと思う。もう、こんな辛い災害は起こってほしくないが、今後自分が現役の間に無いとは言えない。

 今後の自分の心構えとして、平時から周りとよい関係を築いておく事、災害が起こった時の協力体制を確認しておく事、共通の考えで災害救護活動を行うための知識とコミュニケーション能力を高めておく事が自分の課題と考えている。

 最後に、一緒に出動した仲間、出動先でともに活動した皆様、後方支援や病棟の業務を変わっていただいた病院スタッフのみなさん、心配をかけた家族へ、「本当に感謝しています。ありがとうございました。」

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初動DMAT活動


長岡赤十字病院 第一医事課 土田 宏昭

~~~ 状況を自分で検討・判断し準備できるよう、日々精進していきたい ~~~

 震災当日に初動DMATとして出動し、まずは福島、そして宮城県内で活動した。原発事故で福島を離れる際、心苦しくて避難者の方々の顔をみることができなかった。状況把握のために支部・病院だけでなく、全救護班で連絡を取り合ってもいいのではないか?

 震災当日、初動DMATとして活動を行った時の報告を行いたい。

14時46分
 発災。

16時32分
 病院を出発。DMATメールによる参集拠点となった福島県立医大を目指す。(発災後2時間以内に出発できたことは、良かったと思う。)

22時40分
 福島県立医大に到着。先着した統括DMATの新潟市民病院の指示のもと、本部支援。福島県内の病院等へ電話をかけ、情報収集し、広域災害救急医療情報システムへ入力を行う。

0時35分
 南相馬市立総合病院から患者搬送の依頼があり、当院を含め3チームが担当。
 模擬患者を訓練で体験したが、実患者を乗せて搬送することは初めてだった。まして、夜間、知らない道、街灯も消え、車のヘッドライトだけが頼りの中の運転は、非常に緊張した。
 翌朝、食料を探しに福島市内のコンビニを覗くがまったく食料はない。朝食はほとんど食べていなかった。朝の時点でDMATの活動はあまりなかったため、支部や病院と連絡をとり、ニーズを探し、10時にDMATから日赤救護班へ転換し、福島県新地町役場に向かうことになる。役場に向かう途中のコンビニにも食料はない。役場に到着し、救護所を立ち上げ、新地町役場内で巡回診療を開始。

16時20分
 第一原発1号機が爆発したかもしれない、と役場から連絡を受け、対応を協議し、周辺避難所から戻り、その場を離れ、宮城県白石市役所へ向かうことになった。後片付けがとても心苦しかった。避難者の顔が見られなかった。
 宮城県白石市役所でカップラーメンを頂く。休憩中も余震が続き、状況は安定しない。
 翌朝愛知県支部のdERUを設置し、避難所を立ち上げ、14時前に宮城県支部へ寄り、23時病院へ戻る。

考 察
 状況に応じDMATから救護班に転換するのはいい点だと思う。他のDMATにはない日赤独自のスタイルだ。結果的に新地町で活動が十分に行えなかったが、転換し活動を継続していくのは必要だ。DMATから救護班に転換する可能性を含んだ準備を今後もしていくことが重要だと思う。
 支部や病院と連絡をとることはやはり大切だ。全出動救護班は、定時連絡を必ず行うルールを作ってもいい。他の状況を取得・伝達するだけでなく、連絡をとる・外と繋がっていると感じるだけで、隊員は気持ちの整理ができる面もあるはず。特に初動として行く場合には必要だと思った。(病院に残った職員からのメールは本当に心強かった。うれしかった。ありがとうございました。)
 食料の備蓄が無いのは問題だった。途中で買い物をすれば足りる。局地的であればそうかもしれない。別の市、隣の町では通常通りの生活が送られている。しかし広域となると、途中で買い物は不可能だ。まして救護服を着た格好では無理がある。ポット、コンロ等も持たせ、「飯はある。安心しろ。」そう言って渡せる状況が最善だ。
 規模・種類・状況を自分で検討・判断し準備できるよう、日々精進していきたい。

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東日本大震災における長浜赤十字病院災害対策本部の対応


長浜赤十字病院 社会係長(発災当時) 金澤 豊

~~~ 災害対策本部の役割で最も重要な項目は「情報収集」 ~~~

 当院は震災直後に災害対策本部を立ち上げたが、今回のようにインフラが寸断され、インターネットや携帯電話が通じない災害現場では、本部が情報を集約し精度を高めて伝達する必要がある。相馬市に派遣した第1救護班の状況はメールで把握できたが、被災地での横の連携ができていない様子だった。次班、次々班の出動をなかなか決められず、第1班に負担をかけた。災害対策本部の役割の重要性と、決断力の大切さを感じた。

 2011年3月11日14時46分頃、三陸沖を震源としたM9.0の地震が発生しました。遠く離れた当院でも地震の揺れを感じる状態でした。直ちに病棟から被災状況の報告が行われました。情報収集により地震と津波による大規模災害が予測されましたので、社会課に災害対策本部を設置しました。招集をかける前からDMAT隊員は集結してくれました。元々狭くてコンピューター、テレビ等の情報収集を行うのには適していないデスクでしたので、インターネットが利用できる隣のリハビリ広域支援室を借用し、ホワイトボードやテレビを配置し被災状況や医療ニーズの情報収集を行いました。当初、主な情報源はテレビからとなりました。15:00 日本赤十字社滋賀県支部より出動待機要請、厚生労働省からも、DMATに対して出動待機要請があり、DMAT隊員に派遣準備の指示を行いました。

 赤十字滋賀県支部より大津赤十字病院がDMATチームとして派遣したので、長浜赤十字病院から赤十字救護班を出すように要請を受け、大津の支部要員と合流するために 20:00 病院出発を目標に派遣準備に入りました。3月は職員の退職や異動の為に救護班を編成する上で、極めて人員の確保が厳しく、引越しのためにレンタカーの確保も困難な状況下で、気候も降雪が続く冬の救護環境下にあり厳しい派遣となりました。

 病院における災害対策本部の役割は、各フェイズにより異なりますが「情報収集」「資機材・薬剤・食料の調達」「派遣依頼支部との派遣調整」「勤務調整」「移動経路の確認」「車両準備と積載」「活動状況の確認」「救護班との交信」「記録」「後続救護班の調整」「メディア対応」「資機材の補充と検討」「活動検証」「活動経費の清算」と多岐にわたります。その中でも最も重要な項目は、「情報を制するものは災害を制す」といわれるように「情報収集」となります。災害発生当初は発信できる情報は少なく不正確であることが多く、救護班を危険にさらす恐れがあることを周知して慎重に対応しなければなりません。

 今回のようにインフラ(社会基盤)が寸断され、インターネットや携帯電話も思うように使えなくなるのは海外ではよくあることなのです。時間の経過とともに事態は刻々と変化していきますが、被災地内では情報に乏しくなりますので、本部は必要な情報はどのように収集するか、得た情報を本部で集約し、より正確かつ有用なものに加工して精度を高めた情報を伝達しなければなりません。

 今回、被災地の被害状況、被災病院の状況、医療ニーズ、インフラの状況、二次被害の危険性などを把握しながら救護班後方支援に必要な情報をインターネット上で厚生労働省のEMISや赤十字DMAT、HuMA(災害人道医療支援会)、JDR(国際緊急援助隊)、京都大学等から収集しておりました。救護班とは定時連絡でやり取りを行っておりました。

 滋賀県支部の車両と合流し、地震や二次的な被害と渋滞を避けることを考慮し、積雪のある北陸道・磐越ルートを選択し、移動中は救護班には十分な休息が必要なことから連絡を控え、情報収集に専念しました。

 救護班が出動途中に目的地が岩手県盛岡赤十字病院に変更になりましたが、新潟県で大きな地震に遭遇したこともあり、新潟県支部経由で新潟の被災情報収集と太平洋側被災地の情報収集を行い福島県支部への参集となりました。

 福島県支部で被災状況を確認し、津波による被害の大きかった相馬市への救護要請となりましたが、その頃より携帯電話での連絡ができなくなり、災害という暗闇の中に入ってしまった救護班との連絡手段を本部ではひたすら考え、試行錯誤を繰り返しました。時折届く携帯のメールから現状を把握することが可能(縦の連携:Command)で唯一の命綱でしたが、被災地側での横の統制(Control)は出来ていない様子で、福島県支部からの電話情報を当院の救護班にメールで情報を発信する状態でした。

 派遣期間や派遣場所が確定しない状況下で、次の派遣メンバー、次々派遣メンバーが決定できない状況は、被災地から帰院した初動の第1救護班に荷物の積み下ろし、整備をさせる負担をさせ補充に引継ぎと、かなりの負担とおかけする結果となってしまいました。福島の原発問題により、過去に類を見ない複合災害となり災害対策本部の役割の重要性と様々な場面での決断力の大切さを感じました。

 今後、東海、東南海、南海地震の3連動の危険性が報道されておりますが、長浜赤十字病院は敦賀の4基ある原子力発電所から50Km圏内に位置し、長浜市は20Km圏内となりますから薄らごととは言えない環境です。琵琶湖西岸断層や柳ヶ瀬断層等病院を取り巻く環境にも多くの危険性が潜んでおります。

 今回の東日本大震災を経験したことを契機により災害対策研修や装備の見直し、地域住民への赤十字活動の啓蒙等により自主防災救援活動の支援にも取り組んでいきたいと考えております。

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長浜赤十字病院救護班第2班 救護活動を振り返って


長浜赤十字病院 看護係長 北野 裕司

~~~ 放射線被ばくのリスクがあった救護班派遣ケース ~~~

 福島まで放射線量を測定しながら移動した。被ばく量は少量であることや、安定ヨウ素剤で甲状腺の防御ができると理屈ではわかっていたが、原発の悪化の可能性などを考えると不安が強かった。福島県支部に到着したが、他県支部の動向や線量から救護活動をせず撤退を判断した。帰路、後続班のために高速の各SA・PAで線量を測った。赤十字は今後の原子力・放射線災害についての指針を出すべきであると考える。

 私たちは実際の救護は行っていない。福島県支部まで放射線量を測定しながら移動し、線量の値から撤退を判断した。救護班の安全確認、確保に関して感じる考えることが多く、それらを中心に述べる。

 おそらく放射能のリスクがあった初めての救護班派遣ケースだと思う。

 福島に派遣と聞いた際には原発の一部が崩壊している状態であり、30km圏内は避難地域に指定されていた。そのため、50km圏内である福島市では放射能を浴びるリスクが高いと考え、行っても良いのかと迷った。行くと判断したのも、他者が選ばれてしまうのではないか、私への評価が落ちてしまうという感情があった。

 病院の説明で被ばく量は少量であることや、安定ヨウ素剤の内服で甲状腺の防御ができると理屈ではわかっていたが、さらなる原発の悪化の可能性などを考えると不安が強かった。おそらく送り出す、病院側の不安も大きかったのでなないかと思う。

 病院を出発する際は活気があったが、現場に近づくにつれて、車内の会話などからメンバーの不安も大きくなっていたように感じたし、私も不安だった。新潟支部に入り、仮眠を取ったことで少し緊張の緩和と体力の回復が出来たことは幸いであった。新潟から福島に入る道中では救護のことよりも、原発や放射線量のことが気になり、メンバーからも「行っても大丈夫か」といった発言が聞かれた。磐梯山付近にて原発の爆発と白煙が上がったニュースを見て、緊張が一段と大きくなった。本部に指示を仰ぐと、とりあえず福島県支部に向かえとのことであった。メンバーで今後の行動を話し合い、線量を測定しながら向かうことを決定したが、緊張度は非常に高かった。私は、これ以上進んで現地に到着しても、放射線が気になり救護活動を行えないのではないか?と感じるようになった。

 支部に着き支部長の話を聞いたところ、是非福島で救護活動を行なって欲しいと半ば懇願される形で救護の依頼を受けた。出発前の決定事項であった撤退基準20μS/hを観測していなかったが、支部の活動には明らかな人員の不足が見て取れたため、放射能のリスクを背負って救護を行なうかメンバーでも意見が分かれた。本部からの指示でも残って線量の低い場所で救護を行えとの指示(いろいろ指揮命令系統にも問題があったようであるが・・)であった。またその指示を聞いて、私たちは不信感を抱いたりもした。その時、山形から派遣されていた救護班が放射線量を理由に撤退する判断を下した。班員はとにかく放射能の影響が怖かったと話をされた。山形が撤退することで福島県内に展開している救護班は私達だけとなることとなり、この時点で斑長は撤退することを決定した。撤退の申し出を行なったところ、放射能スクリーニングを行なった救護所に行ってくれないかと提案された。しかしメンバーの不安、救護所に入って対象者を見てしまうと仮に事態が悪化した際に撤退する判断ができない、この2点から救護は行わず撤退することとなった。当病院も、福島県本部もそれを了承した。班長であった高萩医師の決定に対するストレスは非常に高かったと想うし、勇気のいる判断だったと思う。撤退を決め帰路に着いた際には、安心したのが正直なところではあったが、線量の高い場所で生活・救護する人々や赤十字の人間として判断が正しかったかを考えると複雑な思いであった。

 帰路においては、本部の指示もあり次の班のためにと高速の各PA・SAで線量を測定しながら撤退した。メンバーの衣類などからは大気と同程度の線量しか測定されなかったため、衣類の処分はしなかった。新潟につき食事をしながらメンバーで今回の活動について語りあった。意見としては、不安がつよかった、いきたくなかった、撤退を決められたこのメンバーでよかった、放射線下での救護班活動はどうなのか、他の場所なら活動できたなど話をして気持ちを落ち着かせることができ病院に帰ることができた。正直、達成感はなく帰れたことに安心した。

 しかし帰宅してから気分が落ち込んだり、のんきなTV番組や家族に腹をたてたり自分自身は不安定であった。食料の確保なども少し行ってしまった。今でも、活動に関してしてことが頭をよぎることがある。

 救護の際に安全は確実なものではないが、放射能に関しては特に不安が大きくなる。

 ゆえに放射線などを考慮して活動しなければいけない時は、県や病院といった単位の判断で活動すべきではないと考える。安全性と体制の整った状態で、多くの班が情報を共有しながら活動できるようにしてから派遣するべきと考える。

 また赤十字は今後起こりうる可能性がでてしまった、原子力・放射線災害についての指針を出すべきであると考える。

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長浜赤十字病院救護班第2班 救護活動を振り返って


長浜赤十字病院 医事統計係長 丸山 直樹

~~ 放射能汚染の中で活動する訓練を受けていない救護班が果たして救護班といえるのか ~~

 救護班全員がヨウ素カリウムを飲み、放射線量測定器の使い方を確認した上で、福島へ向け出発した。線量を測定しながら向かったが、測定器の警告音がものすごく、恐怖感で押しつぶされそうになる。先行して福島に入っていた山形県支部は、線量の高さから撤退を決めた。ここで撤退することは福島の方を裏切る選択になると思ったが、救護班メンバーで話し合い、撤退を決定した。

 平成23年3月15日19時30分。多くの病院職員の見送りのなか、急遽行き先の変更になった日本赤十字福島県支部に向け2台の救急車両は出発した。福島第一原発の事故を受けての出発。その一時間前には救護班全員が“被曝防止用のヨウ素カリウム”を飲み“放射線量測定装置ガイガーカウンター”の使い方を確認した。福島原発がどんな状況であるかはテレビで繰り返し流れていてみんな知っている。僕たちを見送っていただいた人たちも複雑な心境であったと思う。

 翌朝、仮眠をとっていた赤十字新潟県支部のテレビで福島第一原発2号機から煙が上がっている映像をみた。班員の不安が広がる。そんな不安のなか、赤十字新潟県支部を出発する前にいよいよ銀色のケースに入ったガイガーカウンターを箱から取り出し、班員の顔、手、胸、喉などを順番に測定した。

 恐怖を抑えながら赤十字新潟県支部をあとに福島県支部を目指し磐越自動車道を走る。高速道路も途中からは緊急車両のみが通行可能となり、トンネル内の照明は節電のため殆どついていない状況。随時パーキングエリアで地図を広げ、あらかじめ放射状に引いてある福島第一原発からの距離を確認、外気の放射線量を測定し記録する。「現在原発から70キロの地点」「60キロ地点」「50キロ地点」「現在原発に最も接近」。ガイガーカウンターの値も新潟で測定した時は0.09μSv/hしか示さなかったが、嘘のように徐々に上がっていく。車外は雪が舞っていたが気付けば吹雪いている。風の向きを気にしても今更どうしようもない。事前の話で放射線量が20μSv/hを超えれば即時撤退を命じられていた。五百川PAまで進み測定したところ5.1μSv/hを検出した。測定の際のガイガーカウンターの警告音がものすごい。恐怖感で押しつぶされそうになるが20μSv/hは超えていない。撤退はない。(20マイクロシーベルト)(20マイクロシーベルト)その数字が頭で何度もぐるぐる回る。

 福島県支部に到着し支部長に到着の報告をする。立派な建物の中は薄暗い。支部長室では「本当によく来ていただいた」と長浜赤十字病院救護班の到着を心から感謝され最敬礼で迎えていただいた。応接室のソファーに腰掛けて震災と救護所の現状を伺う。水・電気・ガスの止まった状況。加えて、強い余震が続けて起こる恐怖。そして目に見えない高い放射線量。支部の方は何とか救護班に活動してほしいと懇願される。

 そんな中、日赤山形県支部から一足早く救護に来ていた救護班が午前中の活動をもって撤退すると情報が入った。やはり放射線量の高さが問題だった。その時点で福島に入っている救護班は長浜赤十字病院だけである。残って活動するか撤退するか。決断を迫られる。今思うと班員はそれぞれ自分自身の答えを持っていたと思う。でも「感情」をむき出しに話すことが出来ない緊迫感。「感情」で話し出すとみんながばらばらになる気がした。

 ここで撤退することは福島県支部の方、福島県の方を裏切る非道な選択になると思った。しかし放射能汚染の中で活動する訓練を受けていない救護班が果たして救護班といえるのか。いったん救護所に行けば患者を置いて帰る決断を下せなくなるかもしれない。いろんな意見が出た。

 話し合ったうえ、結局撤退することを決断した。苦渋の決断。撤退の意向を支部長に伝えた時のお言葉は今も忘れません「わかりました。遠方までお越し頂きありがとうございました。」その言葉を耳に残して福島県を後にした。福島県支部の皆さん、救護することが出来なかった福島県の人達に対して本当に申し訳ない思いでいっぱいであった。

 福島県から引き上げた夜、新潟で食事を共にとりながら班員全員が「感情」を交えて話し合った。福島県で考えたこと。福島県に置いて来てしまった感情。その夜はみんなと話して楽になった。救われた気がした。救護班として人を救う達成感はもてなかったが、撤退という一つの答えを全員で導けたぎりぎりの満足感を共有することが出来た。でもなぜか涙が溢れてきた。人生で最も長い一日だった。

 すばらしい決断をしたメンバーの一人であったことを本当にうれしく思います。人間としていい経験が出来ました。被災地の一日も早い復興を祈念いたします。

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