救援者たちの証言 -福島赤十字病院-

2013/10/01

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その時、救護活動現場では何が起きていたのか、何が必要だったのか、
そして、救援者たちは何を考え行動していたのか。
混乱する現場において、不安の中で救護にあたった職員等の証言を掲載しています。

日本DMAT隊員 脳神経外科部 副部長 市川 剛
日本DMAT隊員 本館3病棟 看護師 奈良輪 弘美
第1救護班 看護師 手術室 渡邉 あゆみ
第1救護班 主事 医療社会事業課 菅野 正幸
第2救護斑 助産師 渡邉 一代
第2救護班 薬剤師 我妻 禎
第6救護班 主事 菊田 基晴
第6救護班 主事 医事課 阿部 育子
福島赤十字病院 副院長 渡部 洋一

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東日本大震災における福島赤十字病院DMAT活動報告


日本DMAT隊員 脳神経外科部 副部長 市川 剛

000011-01_福島赤十字病院市川剛医師

~~~ 福島県救済のために参集いただいた多くの他機関に感謝したい ~~~

 福島赤十字病院は震災発生日にDMATを出動させ、私たちは南相馬市立総合病院へ向かった。南相馬市から津波にのまれた患者2名(溺水、外傷)を福島県立医科大学まで緊急搬送した。3月12日の原発事故で、周辺からの避難者や被ばくに対する対応の必要性がでてきた。3月13日には、福島県立医科大学において、初めてのDMATの統括業務を行った。

 東日本大震災において福島赤十字病院DMAT(Disaster Medical Assistance Team)として救助活動に参加した。DMATとは、大地震等の災害時に被災地に迅速に駆けつけ、救急治療を行うための専門的な訓練を受けた医療チームである。発災直後にDMATの参集要請があった。当院自体も被災病院であったが、平日の日中であり院内に多くのスタッフがいたこともあり出動した。当チーム(医師1名、看護師2名、薬剤師1名、事務員1名)も県内の参集拠点である福島県立医科大学に向かった。発災当日に被災地域からは参集したのは、拠点である医大チームと当チームだけであった。情報収集の結果、市内での救護活動の需要はなかったが、南相馬市立総合病院に津波による多数の重傷者が居り、当チームは同院に救援・患者搬送へと向かった。同院のロビーには多くの患者が横になっており野戦病院のようであった。当時の詳しい状況は発災当時に同院で活躍されていた太田圭祐先生が著書にまとめている。当チームは翌朝までに2往復し津波にのまれた重傷者2名(溺水、多発外傷)を医大病院に搬送した。道路状況は、一部崩落した所もあったが大きな問題はなかった。しかし福島市内では渋滞に巻き込まれ、携帯酸素が底をつき肝を冷やした。

 津波による被害は甚大で救出される生存者が少なく、12日で県内でのDMAT活動は収束すると思われたが、原発事故で状況が一変した。原発周辺からの避難者や被曝に対応する必要が出てきた。13日には地元のチームとのことでDMAT福島医大内本部にて統括業務を行った。DMATの統括は突然のことで戸惑ったが、日赤福島県支部と連携し、各避難所や被災病院の情報収集、避難者の対応等にあたった。13日夜に県内の他チームに統括を引き継ぎ帰院した。

 今回は原発を有する県であるにも係わらず原発事故に対する備えや放射能に対する知識の欠如を痛感させられた。また本県救済の為に参集して頂いた多くのDMATや他機関には心より感謝したい。最後に、被災された方々にお見舞い申し上げるとともに今後も地域のために活動していきたい。

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「3月11日」


日本DMAT隊員 本館3病棟 看護師 奈良輪 弘美

000011-02_福島赤十字病院奈良輪弘美看護師

~~~ まさに、今が、災害の時だ ~~~

 地震発生時は自宅にいたが、家族の無事が確認されたので、病院へ向かった。福島赤十字病院のDMATの一員として南相馬市立総合病院へ向かい、津波で溺れた患者を福島県立医科大学まで緊急搬送した。搬送中のさまざまなアクシデントを何とか乗り越え、命をつなぐことができた。人生の中で一番長く感じた夜であった。

 3月11日は、深夜明けで、病棟の歓送迎会が予定されていた。駐車場で「また、後で」とあいさつし、自宅にもどり14時頃まで仮眠した。起きると、居間には、母親、妹、姪っ子、甥っ子がいた。突然、エアメールがなり、地震が始まった。すぐに治まるかと思ったが、だんだん揺れが大きくなり、長く続き、家の中にいることに危険を感じ外にでた。自宅の窓ガラスがガタガタゆれ、電柱がゆれ、電線が浪打、瓦屋根が落ちてくる光景に恐怖を感じた。ゆれが納まるまでしばらく、外にいた。家族の無事を確認できたので、病院に向かった。途中メールが入り、「DMAT福島医大病院参集」と。道路は渋滞しており、4号線は通行止め、1時間かけて病院に到着した。急患室に到着すると、DMAT出動が決定されており、感染病棟で、懐中電灯の光をたより救護着に着替えた。まさに、今が、災害の時だと感じた。

 渋滞のなか、サイレンをならし、車と車のなかを割って福島医大病院に到着した。南相馬病院で応援要請あり、当院に戻り器材を準備し、22時頃当院を出発した。途中、雪が降っており、道路も圧雪状態であった。山間をサイレンをならしながら0時ごろ南相馬病院に到着した。

 病院関係者とミーティングを行い、身元不明、溺水の患者を医大病院に搬送することになった。救急車内では、点滴スタンドを足で押さえながら、血圧測定や、サクション、トリアージタックの記載を行った。搬送途中、装備されている酸素が不足しそうな状況になったり、血圧が測定不可となり輸液を全開で投与、昇圧剤のスピードを変更したり、渋滞に巻き込まれ迂回したり等アクシデントをなんとかのり越え、2時間のアンビュウ加圧の末、医大病院まで搬送した。医大病院に到着し、急患室の明るさ、医療器材があること、医療者の姿に安堵し、命をなんとかつなぎ、引き継ぎ出来た。そして、また、南相馬病院にむけて出発した。・・・

 3月11日のことが、今でも、その時の状況が時間とともに鮮明に思い返せる。私の人生で一番長く感じた夜である。

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不安と恐怖と混乱の中での救護活動


第1救護班 看護師 手術室 渡邉 あゆみ

000011-03_福島赤十字病院渡邉あゆみ看護師

~~~ でもいつもと変わらず頑張っている仲間がいる ~~~

 救護班として相馬市の避難所にて救護活動を開始してまもなく、原発事故の影響で撤退することになった。避難者の非難する声が聞こえる中、罪悪感と恐怖感が入り混じった中で川俣町に移動し、原発からの避難者の多くいる避難所で救護活動を行った。寒くつらい夜だった。避難所では、「被ばく」という声が飛びかい、その都度小さなパニックが起き、恐怖を感じた。一方で、避難所では多くの感謝と励ましの言葉もかけられ、逆に感謝した。
帰還後、病院の手術室でいつもと変わらず頑張っている仲間から暖かく迎えられ、心強かった。

 地震発生から間もなく、救護班第1班として救護活動を行うよう指示された。院内は未曾有の大災害という緊急事態、そして大きな余震が何度も続く緊迫した状況の中で、慌ただしい時間を過ごし、翌3月12日朝、南相馬方面へ向かうことになった。この時は、まさか原発が危機的状況にあるなど認識していなかったし、想像を絶するような大きな津波が襲っていたとは夢にも思わなかった。余震、停電、断水、家は?家族は?後ろ髪をひかれるような気持ちでの出発だった。

 途中、家や車や船が流され、悲惨な状況になっている現場を通過し、地震と津波の被害の大きさを目の当たりにした。この辺りの住人は無事なの?と、言葉が出なかった。

 相馬市の体育館で最初の活動を行った。津波から逃れた南相馬市の被災者がたくさん避難していた。まだ濡れた服を着ている人、靴がなく裸足の人もいた。しかし、救護活動もままならないうちに、原発が爆発し、すぐ撤収することになった。「どうせ見捨てていくんでしょ」そんな罵声のような避難者の声が撤収の際に聞こえてきた。罪悪感と、危険な場所から早く逃げたいという恐怖感が入り混じり、心が折れそうだった。

 その後、土砂崩れで通れない道に何度も遭遇しながら、ようやく川俣町に到着した。川俣町内の小中学校に、原発からの避難者が多数いるとのことで、川俣済生会病院を拠点とし、救護活動を行うことになった。夜23時すぎ、私は滋賀日赤の救護班と共に、川俣小学校体育館へ向かった。避難者の数は2000人を超えていると、避難所の管理者から伝えられた。昇降口、廊下、教室、体育館、歩く隙間もないほどの避難者であふれ茫然とした。活動の突破口がわからなかった。数十人に薬を渡し、目があった人に声をけるのが精いっぱいだった。校庭も車で溢れ、その車内でたくさんの人が過ごしていた。懐中電灯を片手に各車をラウンドした。気温は-3度とものすごく寒く、つらかった。

 翌3月13日、川俣済生会病院の応援を行った。川俣町内に避難してきた被災者がたくさん訪れた。私が受付をし問診した方だけでも200人を超えた。薬を持参していない人がほとんどだった。家が流された、家族が津波で流されたまま連絡がとれない、原発が爆発した瞬間たくさんのコンクリート片を浴びた・・、悪夢のような話をたくさん聞き、涙が出た。ストレッチャーで運ばれる人がいると、「被曝者だ」「近づくと被曝するぞ」という声が飛び交い、その都度小さなパニックが起きた。得体の知れない恐怖と不安で、時間がものすごく長かった。活動を終え、放射線量を測定して帰宅した。

 翌日、手術室に出勤すると、いつもと変わらず明るく頑張っているスタッフの姿があり、温かく私を迎えてくれた。心強かった。思えば、避難所で、数え切れないほど「私達のためにありがとう」「あなたも大変なのに頑張って」と言葉をかけてもらい、手を握られた。逆に感謝、そして貴重な経験、悪いことばかりではなかったな、と今思う。

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東日本大震災活動報告・・・放射能災害を経験して


第1救護班 主事 医療社会事業課 菅野 正幸

000011-04_福島赤十字病院菅野正幸主事

~~~ 未来へ向かって新たな歩みを進めていきたい ~~~

 救護班として相馬市の避難所に救護所を開設。その後福島第一原発事故があり、救護所を閉鎖、川俣町に移動した。川俣町の避難所で活動後、3月13日午後に二本松市にてスクリーニングを受けた。以前は、放射性物質が飛び散るような事故は起きないという安心感があったが、3.11を境に考えは一変した。放射性物質が福島県内の広域に飛散し、住み慣れた土地、住まい、故郷に帰ることのできない避難者がまだいっぱいいる。この震災より受けた衝撃は大きかったが、しかしそれ以上に人と人の「絆」の強さや、「人」の素晴らしさも感じた。

 今から、1年3ヶ月前、悪夢のような出来事が起きた。平成23年3月11日(金)14時46分
「東日本大震災」・・・いままでに経験したことのない未曾有の辛く厳しい災害です。

 発災当時、私は、課内で同僚らと共に業務にあたっていました。突然の強い揺れ、直感的に「大変な事が起きた、どうなるんだ」と感じました。福島市内震度5強。院内には、午後の診療を待つ患者様や面会の方々・入院患者様等が在院しておりました。初期対応として避難誘導や設備の点検、緊急備蓄物資の搬送等、職員一丸となって院内外を奔走しました。報道などにより刻々と被害の状況が入ってくるにつれ、被害の甚大さに目を疑いました。

 私が、福島県支部第1救護班として出動し救護活動にあたったのは、3月12日(土)。福島県浜通りの南相馬市・相馬市、そして飯舘村の隣に位置する川俣町です。南相馬市・相馬市では、津波の被害が大きく陸地の深部にまで、波が入り込み、一般道路のすぐ横に漁船が何隻も横たわり、車両、家屋なども全て流され何も残っていない光景を目にしました。先に活動に向かったのは南相馬市の南相馬市立総合病院です。先発していた当院DMATが入り活動していたので、我々は次の活動地として相馬市・相馬市災害対策本部へ向かいました。指示にて避難所となっている「スポーツアリーナそうま」に救護所を開設、救護活動を開始しました。そんな中、福島第一原子力発電所事故の一報。我々は、救護所を閉所し、共に現地で活動していた滋賀県支部救護班と、川俣町へ向かう準備を開始したが、アリーナ内にはまだ沢山の避難者がいました。川俣町に到着してから、町内の避難所の巡回診療を行った。我々の担当避難所は4箇所で、どこの避難所にも200~600人位の避難者で満杯の状態であった。4箇所すべての巡回診療を終え待機場所である済生会川俣病院に到着したのは日付が次の日になっていました。

 13日(日)の朝を向かえ、この日の活動は、待機場所である済生会川俣病院の勤務医師が登院不可とのことで院内において地元住民・避難者の診療支援を実施した。その間も福島第一原子力発電所爆発を受けて双葉町・浪江町・飯舘村より続々住民がバスを連ねて避難してきました。15時に診療支援終了し、放射線の被曝スクリーニングのために、二本松市の男女共生センターへ向け済生会川俣病院を出発しました。被曝スクリーニングの結果、救護班員に異常なく不謹慎かもしれないが、安心したのが本音でした。実際、当時は放射性物質・放射線についてほとんど知識・情報がない状態であり、正直、不安な気持をいだいた事を覚えています。

 ここからは、原子力事故・放射線について私自身が感じたことを記したいと思います。私が赤十字社員の一員となった若い頃、ある先輩職員へ「原子力災害救護訓練」に望むにあたりこんな質問したことがありました。「先輩、もしこの原発が爆発したら福島はどうなってしまうのでしょうか?放射能災害の救護はどうしたらいいのでしょうか?」すると先輩職員は「もし、放射能が出たら救護はどうしようも無い。やり様が無い。でもそんな原発が壊れる様な大災害はまず無いから大丈夫。しっかり訓練するように!!」と激励されたことを覚えています。先輩職員の中にも私の中にも、原発は、放射能が飛び散るような事故が起きたら大変だけど起きるはずのない事故、安全安心。という思いが根底にありました。

 しかし、3.11を境に考えは一変しました。津波が襲い、原子炉建屋が爆発した映像を目にし、そして放射性物質が福島県内の広域に飛散して土壌を汚染し、水を汚染し、大気を汚染し、住み慣れた自分の土地に、住まいに、故郷に、いつになったら帰ることができるのか、目途も付かなく避難されていらっしゃる方々がまだまだ数多くいる状態にあります。そういった方々を思うと居たたまれない気持になります。学校・各公共施設等には、放射線モニタリング機器が設置されており常時、空間の放射線量が測定されています。そこまでしないと安心・安全を得ることができない状況にあります。

 今後も、長期間にわたり放射線と共存していかなければならないでしょう。現実と向き合い、現実を受け入れ、前に進むために何が大切か自問自答をしながら、未来へ向かっての再生が一刻も早く実現することを強く願っています。

 終わりに、この震災が私に与えた衝撃というのは計り知れないものでした。とても強い衝撃でした。
しかし、それ以上に、人と人との繋がる力、「絆」の強さも感じられました。「人」は、とても逞しく、とてもやさしく、とてもすばらしいと感じました。

 これから、挫けることなく未来へ向かって新たな歩みを進めていきたい。そんな気持で一杯です。

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福島県で大震災が起きた!・・・地震と津波と放射能、孤軍奮闘の救護活動


第2救護斑 助産師 渡邉 一代

000011-05_福島赤十字病院渡邉一代助産師

~~~ 放射能汚染!「いつでも、どこでも」の限界体験 ~~~

地震発生時は自宅にいたが、「建物に挟まれるのは嫌だ。でも今行かなくてどうする」と言い聞かせて病院へ向かった。今回の救護活動で感じたことや、今後に活かすことを私見として記述した。
・福島県立福島高等学校の避難所では利用者の状況(妊婦・小さい子供、介護の必要な高齢者、その他)によって利用施設が分類されており、利用者の心情に配慮されている点が素晴らしかった。
・妊婦健診で母子手帳は役に立つ!妊婦さんは常に母子手帳を携帯しよう。
・赤十字病院での災害時を想定した訓練や教育が役に立つ。平時から最新機器がなくても対処できる訓練が、災害時に活きた。
・災害発生初期に、原発事故も発生したために他県の班は県外に移動し、福島県支部と山形県支部が孤軍奮闘だった。
・高齢者施設の利用者の方々を受け入れ、伊達ふれあいセンターに搬送する対応をした際には、人手と救護備品が十分になく被災者に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
・できて当たり前のことができなかった理由の一つが放射能汚染であり、どこにもぶつけることのできない辛さを感じた。

病棟はペチャンコになるかも?でも、行かなくちゃ!

 私が自宅にいる時に地震が発生した。6階建ての建物はガッシャン、ガッシャンと金属がぶつかる音を放ち、それを全身で感じ「ついに福島にも阪神淡路大震災が来た!建物がつぶれる」と思いながら「途中で階段が砕け落ちませんように」と願い、揺れる非常階段を必死に降りた。阪神淡路大震災の救護に参加した私は、あの神戸の三宮や東灘区で見たペチャンコの建物や病院の光景を鮮明に思い出していたのである。だから病院に駆けつけ老朽化した産婦人科病棟に行く時には、「崩れた建物に挟まれるのは嫌だ」と思い、正直100分の1秒の迷いがあった。だから、「病棟にはみんながいる、大変なことになっている。今行かないでどうする」と言い聞かせながら足を進めた。これが今回の救護の初動の気持ちだった。そして、その後に経験した私の救護活動は阪神淡路大震災の救護とはまったくの別物だった。

福島で大変なことが起きている?

 私は救護第2斑で、当院災害派遣医療チーム(DMAT)から引き継いで3月14日の朝に出動した。最初に福島県災害対策本部へ行ったが物々しい雰囲気が漂っていた。福島県災害対策本部が設置されている自治会館の廊下や階段には報道のカメラや照明器具が多数置かれ、報道関係者は疲れて階段で座り込んでいた。今思えば、災害対策本部は地震と津波と放射能汚染の災害に対して、避難や救護をどのように実施するかという選択に苦慮していたのだろう。しかし、私は福島第一原子力発電所の爆発や福島市への詳細な影響も知らずに活動していた。まだことの重大さを知らなかったのである。

救護活動の実際!

 ここでは、救護活動を通して避難所の活動で強く感じたことや今後の実践に活かせることを書こうと思う。ただし、私見であることを考慮されたい。

1.避難所は利用者によって分類せよ!

 福島県立福島高等学校の避難所で素晴らしかったことは、利用者受け入れの最初から施設を3つに分類して利用をしていたことである。分類は、妊婦と小さい子どもをかかえた世帯が利用する施設、高齢者や病気をかかえており介護を受けなければならない方が利用する施設、その他の方々が利用する施設である。このように災害時要援護者と言われる利用者を受け入れの最初の時点から区分しており、平時からの訓練が無ければなかなか実践できない事であり非常に感心した。

 子どもは災害から受ける衝撃が心身ともに大きく、それはその後の成長過程に大きな影響を及ぼすため、異常環境にある発災後においては優先的に保護する必要がある。また、施設分類により避難所で発生しやすい感染の制御もされており、感染制御の基本のひとつである「経路別感染対策」と呼ばれる感染経路の遮断がされていた。

2.妊婦は母子手帳を常時携帯せよ!

 避難所では妊婦健診を行ったが、ここでは母子健康手帳の利用価値の高いことを実感した。健診する方は、初めてお会いする妊婦さんばかりで事前の情報は無かったが、母子健康手帳を持参している方は、妊婦さんの基礎情報やこれまでの経過が要約記入されており、個人カルテと同様の働きをしていた。やはり、災難はいつ発生するか分からないので、妊婦さんは母子健康手帳を外出時も常時持ち歩く事が大切だと痛感した次第である。

3.災害時を想定した教育が活かされた!

 赤十字病院の災害時訓練や教育が役立った。私は助産師であるため、妊婦健診を3名に対して実施した(妊娠中期と妊娠末期)。その中で、胎児心音はトラウベ杵状聴診器を用いて聴取し、胎児の健康を確認することが出来た。また、妊婦の1名は切迫早産徴候が見られたため至急福島赤十字病院への受診を勧め、その結果母親は切迫早産治療を受けることが出来た。これをお読みになる多くの方は、助産師が妊婦健康診査をするのだから母子の健康を判断できて当たり前と思われるかもしれないが、実はこれも平時の訓練のおかげだと思う。最近では胎児心音聴取は高性能の超音波装置を用いて行いトラウベ杵状聴診器を用いて聴取することは必要ない。しかし、福島赤十字病院では産婦人科外来にトラウベ杵状聴診器を配備し、超音波装置と併用して平時より使用している。また、助産師が責任を持って妊婦健診を行う助産外来も実施されており、これが妊婦さんの正常からの逸脱の早期発見と対処につながった。

 災害時救護は赤十字活動の重要な活動であり赤十字病院の看護教育には必須である。平時では高度の医療と看護は当たり前に大切だが、平時だからこそ災害を想定した訓練・教育が出来ると考える。停電で最新医療器材が無くても持参できる器材で対処するための看護・助産技術の訓練や、どこでも落ち着いて安心と安全を提供するという赤十字教育が今回の救護活動で活かされたと実感した。

4.放射能汚染…自力で頑張る!

 福島県内の救護活動で感じたことは、日本赤十字社福島県支部と日本赤十字社山形県支部の孤軍奮闘だったと言うことに尽きる。今回の災害は、岩手県・宮城県・福島県の3県被災に加え、福島県では東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染問題もあった。そのため、災害発生初期の人手が欲しい時期に日本赤十字社各県支部の救護斑は山形県支部を除き福島県外へ行ってしまった。人々が混乱し、昼夜も問わないこの時期に孤軍奮闘を強いられたことに気持ちは複雑であった。災害救護は日本赤十字社の主たる活動で「いつでも、どこでも」と思っていただけに私には正直ショックだったが、同時に「与えられた環境の中で、出来ることをやろう」と奮いたたされた。

5.置き去り?!

 伊達市ふれあいセンターでの活動は、実に救護班の限界を感じた辛い活動であった。出動は16日の深夜0時過ぎで、朝の始動から16時間が経っており、担当するのは、我々赤十字救護班と青森県DMATと福井県DMATから各々1名の計8名であった。福島県庁で被災された方を待っていると常磐交通と福島交通のバスが数台到着し、そのバスの中は想像を超える状況になっていた。乗車していたのは高齢者施設または病院の患者さんだったと思うが、すでに一人の方は脈の触診ができなかった。また、バス車中の通路には人が重なって横たわり自分では動けない方ばかりで、バス座席の下にも人が横たわっていた。初めは「座席の下に潜り込んだの?」と思ったが、搬送しながら分かったのは、身体が棒のように真っすぐに硬直している高齢者の方が初めは坐って(?)いたのだろうが、数名の方は座席の下に滑り落ちていたのである。私はこの時、足の踏み場もないバス車中の光景が日本とは別のかけ離れた世界にいるかのような錯覚をもったし、これが福島の現実だと直ぐには受け入れられなかった。

 バスが避難施設に到着すると、消防隊員の方たちと協働して利用者の方を搬送した。屋外では雪が降っており、暖房がない冷え冷えとした広いホールで、我々はビニールマットを敷いてその上に非常用の配給毛布を敷き詰め、そこに利用者の方を寝かせてその上に毛布をお掛けした。そうして合計54名の利用者の方が施設に入所出来たのである。しかし、どう見ても最良の環境設定ではなく、高校時代のスポーツ部の夏の合宿所のようだったし、テレビで見た野戦病院のようだった。物が溢れている現代で、皆が一生懸命頑張って設定した避難所の状況が情けなかった。物品の不足から中心静脈栄養の管が空パックと連結していても交換するものが無いのでそのままにした。しかしそんな時に、トイレで排水用バケツの落ち葉が浮いている溜水を飲んでいた方にお会いして、「バケツの水を飲んでいる?お腹がすいているんだ!」と理解した時、私の脳が「止まるな!動け!」とやっと動き出した。「自分の出来ない事に目を向けて止まるな!出来ることをしよう!」とハッとさせられ、それからは、水分補給や手持ちのお尻拭きと紙おむつを使用しておむつ交換を始めた。しかし、救護班の物品に食料も紙おむつも携帯していないため数量は十分ではなく直ぐ使い果たし、避難施設にも食料やおむつの備蓄は無かった。だから、救護班引き上げに際しては心の中で“十分できなくてごめんなさい”という思いで一杯だったし、“置き去りにしたのではないか?!”という非常に辛い気持ちになったことが忘れられない。

 この救護活動の課題は、事前に救護する対象を把握できなかったことが物品不足を招いたと考える。しかし、今回の様に大災害の場合は、情報を事前に入手できない事は想定内であると考えると、夜間の救護体制の充実や救護備品の検討等がある。災害発生後の急性期には、夜間も活動できる救護班は当然必要であるし、救護班の個数も複数班欲しい。また、食料や備品も子どもや高齢者、傷病者を対象とした物も欲しかった。しかし、こんな当たり前の事が赤十字活動で出来なかった理由の一つが放射能汚染である。その事が、どこにもぶつけることのできない辛さでもあった。

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震災を振り返って


第2救護班 薬剤師 我妻 禎

000011-06_福島赤十字病院我妻禎薬剤師

~~~ 子供たちへのヨード剤の服用指導 ~~~

 当直明けの日、急遽福島高校にて被ばくの可能性のある避難者にヨウ素剤の服用指導を行うこととなった。ヨードに対する知識はなかったので、事前にネットなどにより調べて向かった。無事子供たちに配布した後、二本松市に向かいそこでスクリーニングを受けた。この先どうなるか不安だったが、貴重な経験をした1日だった。

 震災直後より薬剤部は24時間体制をとっており、私も13日に待機当直をしていました。14日(月)の朝当直明けで帰宅しようとした時、県立福島高校より被曝疑いの人たちへのヨード剤の服用の指導と乳幼児のヨードの調整依頼があり、薄薬剤師と共に県立福島高校へ行くことになりました。

 ヨードに対する知識はなく、どうやって調整するか見当がつかなかったのですが、ネットなどにより情報を得て高校に向かいました。その際、蒸留水、単シロップ、薬包紙、カップを準備して持っていくことにしました。

 初めに高校の職員よりヨウ化カリウム丸100mgを渡されました。これを手動のコーヒーミルで粉砕し、それぞれの服用の力価に量りシロップを加えて飲ませることにしました。その後ヨウ化カリウムの粉末があると言われそちらを使用することにしました。なぜなら粉砕したのは溶けにくく飲みづらそうだったからです。

 作り方は持ってきた資料にあったのですが、ヨウ化カリウムの原薬を8,15gとり、水250mLと単シロップ250mLに溶かして調整して投与するものでした。これだと1mL=16,3mg=新生児、2mL=32,6mg=1ヶ月~3歳未満、3mL=48,9mg=3歳~7歳となり投与しやすくなります。しかしシロップも蒸留水もそんなに持って行かなかったので、発想を変えて原末1gを100mLの蒸留水に溶かし1mL当たり10mgのヨウ化カリウム溶液を作り、投与含量に合わせてシロップを加えて投与しました。最初に量を間違えて投与したケースもありましたが、無事高校内の子供たちには配布できました。概ね作業が終わり帰る時になり、二本松に行くと主事から聞かされます。あとで分かったことですが、私たちが見に行った体育館の中に被曝していた可能性がある人がいたらしく、二本松男女共生センターにスクリーニングに行く事になったとのこと。初めての経験でドキドキしましたが、幸い全員被曝なしで帰路に就くことができました。

 本来なら当直明けで9時に帰宅するところ、帰院したのが18時頃で家に着いたのが19時頃なっていました。

 水素爆発が続き放射能で汚染される福島。これからどうなるのだろうと不安だったが、今となって思えば貴重な経験をした1日でした。

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東日本大震災における救護活動を振り返って


第6救護班 主事 菊田 基晴

000011-07_福島赤十字病院菊田基晴主事

~~~ いまでもあの時の光景を忘れる事は出来ません ~~~

 あづま体育館避難所にて、福島第一原発の避難指示区域内にある病院の寝たきり患者28名を受け入れる救護活動を行った。大型バスで到着した際に見た光景は忘れることができない。避難所への搬送後診察で、3名の方がすでに亡くなっていたことがわかった。4名の方を福島赤十字病院に緊急搬送した。
原発事故後で他県の救護班の協力が得られない中、日赤DMAT神奈川チームの協力が心強かった。「原発事故であっても協力するのが日赤として当たり前です。」との言葉が心に強く残っている。どんな状況であっても、日赤の使命を忘れてはならないと実感した。

 いまでもあの時の光景は忘れる事は出来ません。

 私は、福島原発事故後の3月16日に福島県営あづま総合運動公園体育館における救護活動に出動しました。あづま総合運動公園体育館は、当時、福島市最大の避難所で1000人以上の避難者が避難していました。事前の情報では、大型バスで比較的軽症の被災者が30名程度運ばれるので、その方々を重点的に診察とのことで出動しました。

 現場に到着し、新たに入った情報では、運ばれて来る被災者は、原発事故があった福島第一原発より3kmの精神科病院から搬送され、ほとんどが認知症の寝たきりの患者で、中には既に亡くなっている方もいるとのことでした。又スクリーニングだけは終了していて、放射能には汚染されていないことだけは把握出来ました。本来はそのような方々は病院又は、施設に直接搬送されるべきと思われるのですが、どの様な経緯で、避難所に搬送されるようになったかは不明のまま、遺体安置所を含めた救護所の設置に取り掛かりました。

 大型バス到着後、バスは体育館前に駐車することが出来ず、数百メートル離れた場所から、車でピストン輸送することになりました。搬送の為向かったバスの中が、冒頭の言葉になります。ほぼ満席で、通路にも寝かされている状態で、2日間オムツ替もされてなかったらしく、バスの中は酷い悪臭で、高齢者の方々が毛布にくるまれていました。3月14日に福島第一原発3号機原子炉建屋が水素爆発してから2日経っていたのですが、職員等が同乗していなかったので、2日間どのような状態だったか、又名前すら把握できない状況でした。

 歩くことが出来る方は一人もいなかった為、バスから車に担架で乗せ替えを行ったのですが、折りしも雪が降りだし大変難渋しました。合計28名一人一人救護所へ搬送しましたが、医師の診察の結果、残念な事に3名の方が既に亡くなられていました。

 胃瘻管理等が必要な方4名を、福島赤十字病院へ救急車搬送し活動を終了したのは、深夜日付を跨いでいました。

 心強かったのは、原発事故後他県救護班の協力が得られない中、日赤DMAT神奈川県のチームの協力を得られた事です。上記の搬送も含め、それと平行して行われた救護所での活動や、本来救護所での管理が難しいと思われる上記の患者の管理の引継ぎをして頂きました。「原発事故であっても協力するのは日赤として当たり前です。」と言って頂いた日赤DMAT神奈川県チームの主事さんの言葉は今も私の心に強く残っています。

 今回の救護活動は、原発事故という特殊な状況下での、特殊なケースだったと思いますが、想定外で困難な状況のなかでも臨機応変の対応の大切さと、どの様な特殊なケースであっても日赤の使命を忘れてはならないと実感しました。

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「東日本大震災の救護活動を振り返って」


第6救護班 主事 医事課 阿部 育子

000011-08_福島赤十字病院阿部育子主事

~~~ 出来る限りの活動をさせていただいたような気がしました ~~~

 3月16日、あづま体育館避難所にて初めての救護活動に参加した。当避難所には、被ばくのチェックを受けるための避難者の列ができていた。
暗くなったころ、双葉病院から患者が搬送されて来るとの連絡があり、受入れ準備を行った。自衛隊の協力で体育館に搬入される際、「もう大丈夫ですよ。」と声を掛けても返事のない患者がほとんどであった。救護班員として「できるだけのことやる」という訓練での教えを思い出しながら活動にあたった。活動が終わった時には24時を過ぎていた。翌朝、夫が着替えと食事を持って病院に届けてくれた時には、家族のありがたさをしみじみと感じた。
その後踊りを習い、最近は施設でのボランティア活動もしている。

 2011年3月11日、午後2時46分に東日本大震災が発生しました。

 今まで経験したことのない激しく長い揺れが続きました。

 私は本4階病棟へ行き、小児科病棟の病室の扉が閉まらないようにガムテープで扉を固定する作業を手伝い、その後、点滴台を抑えたり、個室の患者さんを励ましながら揺れがおさまるのを待ちました。

 それからは、余震と原子力発電所の事故に不安や戸惑いを感じながらも、家事と職場での非日常的な慌しい日々を過ごしていました。

 私に出動命令が出たのは3月16日の午前中でした。それまで、訓練に参加しても女性事務職員が救護活動に出動したことはなく、そんなことから、出動命令が出た時は「日本赤十字社の一員として精一杯頑張ろう!」と勇気が湧いてくるのを感じました。

 福島県支部で毎年行われている救護訓練にはそれまで2回参加したことがありますが、現場での活動は初めてなのでとても緊張しました。しかし、出動準備をしている時や移動の車の中で、救護活動を経験したことのある医師や看護師・主事に教えてもらった事や体験談は大変参考になり、後の活動にとても役立ちました。

 私が救護に向かったのは、あづま運動公園体育館です。当日は雪が舞っていてとても寒かったのですが、体育館入り口周辺ではサーベイメーターによる被ばくのチェックを受けるために、寒さに震えながら順番を待つ避難者の方の行列が続いていました。軽装でサンダル履きの方もいて、津波や原発から着の身着のままで逃げてきたような様子でした。

 体育館職員の方たちに挨拶をして、医療機材を体育館の一室に運び入れ、救護所の設営に取り掛かりました。

 患者さんの動線を考えながら救護所のレイアウトを決め、「足りないものは、あるものを工夫して使う。」と、カルテを保管するためのカルテ棚は廃品のダンボールを利用して作りました。

 受付、診察室、処置室などを整えて「救護所」と「赤十字マーク」の旗を掲げた後、救護所が設置された旨を館内放送してもらうと、数人の方が受診に訪れました。
手持ちの薬が切れてしまったという方が多く、胃の調子が悪い、熱があるという患者さんもいました。動くことが出来ない患者さんのところへはチームで往診に行きました。

 救護所に在庫がない薬は、調剤薬局にお薬手帳か残薬を持参すれば1週間分処方されるようになっていましたが、ガソリンが無いために車が使えず、薬を配達してもらうことも貰いに行くことも出来ない状況で、雪の中を歩いていくしかありませんでした。

 出動する前の情報では、双葉の病院から40人ほどの患者さんが運ばれてくるという事でしたが、なかなか患者さんが到着しません。

 暗くなり始めたころ、やっと双葉の病院から患者さんが30人近く運ばれてくるという連絡が入り、全員バスに乗ってはいるものの、折り重なる状態で乗せられており、もうすでに亡くなっている方もいるかもしれないという情報でした。

 自衛隊もこちらに応援に向かっているとのこと。救護所全体に緊張が走りました。

 搬送方法、トリアージ、搬送する部屋、ベットの並べ順、処置台の位置、医療機材、材料、薬剤、カルテ、診療の流れなど、全てがスムーズに行くよう、医師、看護師、薬剤師、事務が出来る限りの準備を整えました。

 しばらくすると、次々と患者さんが運ばれてきました。
入り口で医師によるトリアージを受けてタックを付けた患者さんが、自衛隊員の整然とした機敏な動きや掛け声と共に担架で運ばれてきます。毛布に包まれ、体が冷え切ったお年寄りの方ばかりです。更にもう1枚の毛布を掛けて身体を温めながら、「もう大丈夫ですよ。」「寒かったですね。」「名前を教えてください。」と声を掛けても、返事の無い患者さんがほとんどでした。
なかなか声が聞き取れない患者さんもいれば、大声を出せる患者さんもいました。

 名前がわからない患者さんには、ベット脇の点滴台と患者さんの2箇所に同じ番号札を付け、枕元に同じ番号のカルテを置き、患者の取り違えが無いように注意しました。

 カルテに名前だけでも記入出来ればと、パジャマや下着、オムツに書かれてある名前を懸命に探しましたが、3日間以上オムツや下着を取り替えられていない患者さんたちばかりなので、着ているものはグチャグチャでした。

 神奈川県日赤救護班の看護師さんが、次々と運ばれてくる患者さんに優しく声を掛けながら、素早い動きで細い血管に点滴を刺していきました。
ひと段落着いたので「何か手伝えることがありますか?」と聞くと「点滴ルートを作ってください。」と頼まれました。

 私は、点滴ルートの作り方を習い「出来ることは何でもやること。」と教えてもらった事を思い出しながら、緊張しつつ点滴ルートを作りました。点滴が身体に入り体が温まってくると、患者さんの顔色が次第に良くなり、元気を取り戻してきました。何日も食事や水を摂っていないので、「水~、水をちょうだい~!」と必死に水を求める声が聞こえてきました。

 医師に確認して少しずつ水を口に含ませると、必死の形相が和ぎ、穏やかな顔に変わります。苦しそうに呼吸をしている患者さんの首に巻かれた包帯の下には、穴が開いていました。
地震や原子力発電所の爆発が起きるまでは管が入っていたのでしょう。このような重症の患者さんも、管を外されてバスに乗せられてくるという現実に、災害の恐ろしさを感じました。
引継ぎの時間になりました。

 時計は24時を回っていました。何時間経過したのかも分からないくらい慌ただしい時間の流れと業務に、これが災害救護というものなのだとつくづく思いました。
力不足だったかも知れませんが、私の出来る限りの活動をさせていただいたような気がしました。同じ救護班のメンバーも、各々の持ち場で必死になって活動していました。

 病院に到着して救護服を着替えるために、なんとか更衣室まで行きましたが、もうこれ以上体が動かなくなってしまいました。本当に疲れて家に帰る体力も残っておらず、その日は更衣室に泊まりました。

 翌日の朝早く、「お疲れ様。」と、夫が着替えと朝食・お弁当を病院に届けてくれ、家族の有り難さをしみじみと感じました。

 その後、私は踊りを習いはじめました。
あの日、体育館のホールでギターを片手に歌をうたい、避難民の方を励ましていた若者や、寒い空の下で暖かい料理を提供しているボランティアの方を、素晴らしいなあと感じたからです。「私にも何か出来たら・・・」と、踊りを始め、最近は施設に行きボランティアとして愉快な踊りでお年寄りを笑わせています。

 これからも、日本赤十字社救護活動の一員としてしっかりと活躍できるよう、健康な体と心、仕事のスキルを高めるよう、努力していきたいと思っています。

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東日本大震災における当院の災害医療活動


福島赤十字病院 副院長 渡部 洋一

000011-09_福島赤十字病院渡部洋一副院長

~~~ 福島赤十字病院の活動の検証と、今後の活動に活かすための教訓 ~~~

(1) 入院患者数・空床数・人・設備の被害状況などを迅速かつ的確に把握することが重要。
(2) 毎年の災害医療の訓練が役に立ち、職員全員が何をすべきか理解していた。
(3) 停電でもX線機器やエレベーターが使用可能な非常電源の整備が必要。
(4) 入院患者と職員の食事確保は重要であり、厨房機能は内部運営が望ましい。
(5) 衛星電話や日赤無線も機能せず、災害時の通信手段の再検討が必要。
(6) 原発事故のため、県支部の命令で浜通りから撤収した。他県の救護班は全て帰還し後続の班は来なかった。避難所の被災者が除染が必要なほど被ばくしている可能性は少なく、防護服や線量計などの必要な準備をすれば活動は継続できた。
(7) 今回は放射線被ばくに対する対応に問題があった。当然ながら、職員の安全を確保することは何より重要。
(8) 原発立地県の医療機関や日赤本社は放射線被ばくに関する研修や、緊急被ばく医療に関する訓練を行い、有事の際にも適切な医療活動が行えるように準備することが必要。

 この度の東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。災害時の救護活動は日本赤十字社の最も重要な事業の一つであり、医療救護班の派遣、救援物資の配分、義援金の受付・配分を行います。福島赤十字病院は県北医療圏の災害拠点病院に指定されており、避難所での医療救護班活動、多数傷病者受入の際のトリアージとそれに続く災害医療などの訓練を行ってきました。今回の大震災への対応に関して、これまでの訓練が生かされ円滑に活動が行えた点、逆に不十分であった点を検証し、今後の災害医療活動の参考にしたいと思います。

 平成23年3月11日午後2時46分、これまでにない大きな横揺れの強い地震が発生した。外来で書類書きをしていたが、すぐに1階、2階の外来部門、手術室で被害が出ていないこと、最も古い病棟(昭和37年建築)が損壊を免れたことを確認後本館5階事務室に入り災害対策本部を立ち上げた。まず外来患者、入院患者、職員の安全確認および各病棟、各部署の被害状況の確認を行った。事務職員は迅速に行動し、幸い人的被害はないこと、建物は壁などにひび割れ等はあるものの天井の落下や倒壊の危険はないことが短時間で確認でき、入院診療はこのまま継続可能であると判断した。

 教訓1:「被害状況報告書」が有用。入院患者数、空床数、レスピレーター使用患者数、人的(患者・職員)被災状況の有無、設備損壊状況(壁・天井の破損、電気・水道・電話・医療ガス・トイレなどの排水が使用可能かどうかなど)について必要最低限の事項のみを記入。

 テレビの地震速報ではM8.8の大地震(後日M9に訂正)で岩手県、宮城県、福島県に甚大な被害が出ており、福島県浜通り、中通りの震度は6強との情報であり非常事態と考え、その後の予定手術、心カテなどの検査は中止とした。また自宅退院が可能な患者さんは出来るだけ早く退院していただき、急患を受け入れる空床を確保した。次に救急患者の受入準備を行った。過去の訓練時と同様に玄関前にトリアージエリアを設置して数名の看護師と事務職員を配置してトリアージタッグを準備、私はトリアージオフィサーとして待機した。1階フロアに軽症患者の診療スペースを確保し、入院が必要な中等症以上の患者は急患室で診療することにした。福島市では建物の倒壊や津波による被害がなかったため、多数の傷病者が同時に搬送されることはなく混乱はなかった。電話回線が通じなくなったため連絡なしに救急隊が搬送してくる外傷救急患者を円滑に受け入れ治療することができた。発災後から翌朝まで34名の救急患者を受け入れ12名入院したが、予想したより患者数も重症者も少なくて問題なく対応することができた。

 教訓2:毎年行っている災害医療の訓練(トリアージ等)が役に立った。職員全員がトリアージの概念、トリアージタッグの使用方法を認識していることが重要。

 停電により非常電源しか使用できず、すべてのX線検査が不可能となり、血液検査は末梢血と血液ガス検査だけが可能であった。エレベーターが停止したため、病棟に患者を入院させる際には男性事務職員、放射線技師が担架を使用して人力で搬送した。彼らは自発的に一晩中1階フロアに待機して患者搬送業務を行ってくれた。レスピレーターを使用していた患者数は3名だったが、機械の充電機能、非常電源の作動によりトラブルはなかった。

 教訓3: 停電になってもX線機器やエレベーターが非常電源で使用できるよう電気設備の改善が必要。現病院の電気システムでは不可能なので将来新築する際にはこの点を必ず整備すること。

 厨房では断水と停電により発災当夜から調理不可能となったため、入院患者の発災当夜と翌日の食事は災害時のために備蓄している非常食(レトルトのお粥や缶詰)を配膳した。災害時には売店内のすべての食料を提供してもらうよう契約しているため職員用に売店内のカップラーメン、パンが大量に配布された。毎日焼きたてのパンを提供していただいた。12日夜からは電気が復旧し、日赤福島県支部から飲料水のポリタンクが届き米飯が炊けるようになった。栄養課はその後数日間、業者からの食材の配達がない中、自ら買い出しに走り、やっと確保した食材を工夫して料理を作ってくれた。入院患者だけでなく浜通りから入院した患者の家族や勤務する職員の分まで食事を供給してくれ、患者さんも職員も飢えることなく過ごせた。

 教訓4:腹が減っては戦ができない。入院患者と職員の食事確保は重要。厨房を外部委託している病院もあるが、今回の災害時に撤退してしまったところもある。栄養課(厨房)は使命感ある自院の職員で運営するのが良い。

 11日夜、市川 剛先生を班長とする福島日赤DMATが南相馬市立病院に出動し、同病院に搬入された重症患者の域外搬送に従事した。当院にも脳挫傷の患者さんがDMATにより転院搬送された。DMATは2日間、ほとんど休まず活動した。13日には2回目のDMAT出動もあり福島医大で統括業務を行った。

 私は3月12日、日赤福島県支部救護班第1班の班長として出動した。医師1名、看護師3名、事務2名、計6名のチームで、まず南相馬市立病院の支援に向かった。発災当日は多くの救急患者が搬送されたとのことだったが、われわれが到着したお昼頃は大分落ち着いたようだった。太田圭祐先生が指揮を取って急患の受け入れに従事しており、伊藤英治先生も支援に来ておられた。また会津中央病院のDMATも病院支援に入っており1階フロアの簡易ベッドに患者さんがいない状況になっていたので、その後は相馬市内で避難所診療を行うことになった。この頃携帯電話や災害用衛星携帯電話の回線が繋がらず、日赤の無線も浜通りから永井川の福島県支部や福島赤十字病院の災対本部との通信が出来ない状況で、公衆電話だけが唯一の通信手段だった。

 教訓5:福島県は面積が広大で山も多く、福島市の県支部や病院と無線連絡が出来ない地域がある。衛星を利用するなどのシステムを構築しこの問題を解決すべき。衛星携帯電話は災害時でも問題なく通信可能と言われてきたが再考が必要。今回通信手段で最も確実だったのは公衆電話から災害時優先固定電話への通信。

 6号線を北上すると海側に果てしなく瓦礫が広がり、漁船が国道のガードレールに衝突して横転、国道も一部瓦礫に覆われ、今回の津波被害の凄まじさに寒気がする思いだった。相馬市役所には日赤滋賀県支部(長浜赤十字病院)の救護班も到着しており、市内の避難所をそれぞれ分担して診療することにした。我々の班は「スポーツアリーナ相馬」に入り、8畳程の広さの物置に救護所を展開し被災者の診療を行った。活動開始から3時間程たった17時半頃携帯電話に日赤福島県支部から連絡が入った。(十数回かけ続けてたまたま繋がったらしい) 「原発が爆発したので、浜通りに展開している日赤救護班はすべて撤収するように」とのこと。他県の班に連絡がつかないため直接活動場所に行って一緒に連れて帰れとの指令もあった。避難者や市役所職員から、いつまでいてくれるのかと聞かれ、2泊3日滞在して救護所での診療をしますよと言った舌の根も乾かぬうちに撤収とは・・・忸怩たる思いをいだきながら、「中村第一小学校」と「はまなす館」で活動していた他県の救護班を誘導し一緒に川俣町へと移動した。この撤収の判断は正しかったのだろうか。日赤福島県支部災対本部からの命令とはいえ、避難所の住民を置いて移動したことは誤りであった。原発事故がその後どうなるかはわからなかったが、万一の場合は、避難所の住民をすべて避難させてから救護班がしんがりを務めるべきであったと後悔している。鹿島から飯舘を通り川俣に向かったが、双葉町や浪江町などから避難する車の列が続いて渋滞していた。(福島第一原発から20km圏内、第二原発から10km圏内の住民に避難指示が出た) 川俣町に入るとようやく福島県支部との無線通信が可能となり、済生会川俣病院の支援に入るよう命令を受けた。済生会川俣病院には双葉町の老人保健施設入所者が多数搬送されたが、医師は佐久間院長先生一人だけしかおらず、患者数は病院のcapacityを超えていた。ベッドの間に布団やマットレスを敷いて患者を収容し、入院指示を出した。夜間は川俣町役場から巡回診療を依頼され、川俣町体育館と川俣小学校に出かけた。高血圧症などの薬を希望される方、風邪、軽度の外傷が主だった。

 翌13日、済生会川俣病院は日曜当番医であり翌朝8時頃より、避難所から多くの患者さんが外来に殺到した。日直医が道路渋滞のため昼頃まで到着しなかったため、長浜赤十字病院の医師と一緒に外来を行った。多くは高血圧症、糖尿病など慢性疾患で普段服用している薬を処方してほしいという患者さんであった。「お薬手帳」などを持ってこられる方はすぐ処方箋を記載できたが、情報が何もないまま内服薬やインスリン注射液を希望される方などには難渋した。午前中だけで150名程の外来患者さんを診療した。16時頃避難所診療を終えた救護班が戻ってきた後、滋賀県、岡山県支部救護班を連れて「二本松男女共生センター」で放射線被曝スクリーニングを受け、福島県支部に帰還した。福島第1原発1号機の水素爆発以降に避難してきた双葉町の被災者の方々と接触したが、救護班員の2次被曝はなかった。20時頃からこの日出動していた愛媛、香川、高知、広島、岡山、滋賀、福島の救護班が集合してミーティングが行われた。他県の救護班長から放射線被曝などの危険性がある地域には救護班を出せない、安全性を確保してから派遣命令を出してほしいと強く要望された。翌日、他県救護班は帰還し後続は来県しなかった。

 教訓6:避難所の被災者が除染を要する程の多量の放射線に被曝している可能性は少なく、医療者が接触する場合にはマスク、帽子、手袋、ガウンなど通常の防御態勢で問題ない。 空間線量計、GMサーベイメーター、個人用のポケット線量計を携帯できれば安全性を確認しながら活動できる。

 3月14日、15日は断水のため通常の外来診療は休止した。来院した患者さんには事情を説明し、急患以外の方は院内には入れないようにした。定期的に服用している薬が必要な方は調剤薬局でお薬手帳など服用している薬が記載してあるものを提示すれば1週間分の薬がもらえることを説明し帰宅していただいた。16日からは水道が復旧してトイレが使用可能となりX線検査、血液検査も通常通り行えるようになったので、外来診療を再開することができた。ただし手術に関しては滅菌装置が故障したため緊急のみとした(器械滅菌は17日から可能となる)。予定手術の再開は3月24日からだった。

 今回の震災における医療活動において問題だったのは放射線被曝に対する対応である。1)救護班活動の安全性、2)被曝している可能性のある患者受け入れの導線と診察場所、3)放射線測定値が高い中での勤務の安全性、4)安定ヨウ素剤の配布、5)避難を希望する職員への対応、6)大量の放射線が放出された時の緊急体制などが課題だった。当初は放射線被曝医療に関する知識に乏しかったこと、緊急被曝医療の訓練を行って来なかったことが反省される。

 1)日赤救護班活動に関しては、福島県内は放射能汚染により危険と認識され、他県救護班の派遣が一時期とだえてしまった。福島市の環境放射能測定値は16日午前1時に20.8μSv/hと高値だったが、その後19時には14.7と低下傾向にあるため健康に影響はないと言われており、救護活動は安全に行えると伝達したが、他県支部には理解が得られなかったようである。そのため福島赤十字病院救護班1班だけの活動に制限された時期があった。その後県北と会津での日赤救護活動が再開されたが組織的な救護班派遣が行われなかった期間があったのは残念なことである。日本赤十字社の使命として「わたしたちは、苦しんでいる人を救いたいという思いを結集し、いかなる状況下でも、人間のいのちと健康、尊厳を守ります」と掲げていることを日本赤十字社全体として再認識していただきたいと考えている。

 (4月21日までに派遣された救護班の総数は629個班で、岩手県には191個班、宮城県には315個班であるが、福島県は99個班と少ない)

 3月19日に本社の災対本部から「被曝医療チームガイダンスの概要」という文書が届いた。

 安全管理に関しては以下のような記載がなされている。

ゾーニング:福島第一原発から30km圏内での活動は行わない。
放射線防護:空間線量計:20μSv/h以上(100μSv/hで退避)本部に連絡し指示を仰ぐ
個人線量計の携帯:1mSvで退避
内部汚染対策:タイベックススーツの着用
40歳以下の職員へのヨウ素剤の保持
N95呼吸防護の保持

 発災から2週間後の3月26日にようやく個人用ポケット線量計が本社から届けていただいたので、これを携帯し安心して救護活動が行えるようになった。ポケット線量計の計測では、3月末に福島市内で1日通常の救護活動を行うと累積線量は3μSv程度であった。また長崎・広島の日赤原爆病院から放射線障害を専門とする医師が来県し、被曝医療について講義をしていただいた。

 2)双葉町などからの避難者で放射線スクリーニングを受けていない方が来院した場合には、待合室と診察室を一般患者とは別にして対応した。保健所は二本松男女共生センターで放射線被曝スクリーニングを受けてから受診させなさいという通達を出したが、実際は交通手段がないため困難であった。各病院にGMサーベイメーターを配備してスクリーニングできる体制が理想だったが、当時は全く手に入らなかった。福島市の救急隊にはこの頃サーベイメーターが4個配備され、救急患者のスクリーニングを行い被曝がないことを確認してから搬送してくれた。

 3月14日:県北保健所からの事務連絡
原子力発電所から半径20 km圏内の居住者に対する被曝線量の測定および除染を行う場所は下記の2カ所なので、貴医療機関に当該居住者が来院された場合には、当該場所に向かうようご案内をお願いいたします。
二本松男女共生センター、郡山市総合体育館 9:30 – 18:00

 3)環境放射能測定値が高い中、職員は毎日不安を抱きながら仕事をしていたので、病院内の各地点で1日2回放射能測定を行い職員に周知した。(3月18日に日赤本社から空間線量計が届けられ測定可能となる)

 窓際や亀裂の入った渡り廊下では2~3μSv/hという値になるが、病室や病棟詰所での測定値は0であり、院内にいる限りはほとんど被曝しないことが明らかとなった。数値に表して連絡したので安心度が高まった。

 4)安定ヨウ素剤(ヨウ化カリウム)は625人分確保し、緊急時には職員に配布することを周知した。あらかじめ配ってほしいとの要望もあったが、放射性ヨウ素に曝される24時間前から2時間後のタイミングで服用しないと効果がないことを説明し、県の指示により配布すると伝えた。(事前に安定ヨウ素剤を職員に配布した病院では、配られた直後に服用してしまったという事例があった)職員を安心させるため、その時点での放射能環境が健康に影響を及ばさないことを医療安全推進室と災害対策本部からのレターとして配布した。

 5)避難を希望する職員(特に妊婦や小さな子供がいる職員)は、有給休暇をとって休むことができることを院長名で全職員に文書連絡をした。その結果6名の職員は家族と一時的な県外への避難をしたが、5名は復職してくれた。

 6)最も頭を悩ませたのは原子炉格納容器の爆発により、高濃度の放射線が放出された場合の対応である。病院周囲の放射能測定値が100μSv/hを超えた場合には、院内に退避し外気を遮断して72時間は待機することとし、これに備えて食料を確保した。この場合1号館(最も古い病棟)は隙間が多くて密閉できないため、この病棟の患者を本館病棟に移動する計画を立案した。

 教訓7:当たり前のことだが、職員の安全を確保し、職員が安心して労働できる環境を整備するのが病院幹部の使命。職員が「われわれは病院に大切されている」という気持ちを持ってもらうような施策を行うべき。

 教訓8:原発立地県の医療機関や日本赤十字社は、放射線被曝に関する勉強会や緊急被曝医療に関する訓練を行い、有事の際に落ち着いて適切な医療活動が行えるよう準備をしておくことが重要。また病院には空間線量計、GMサーベイメーター、個人用ポケット線量計の配備が必要。

 震災後福島赤十字病院は、南相馬市や双葉町など浜通りからの患者さんを61名入院で受け入れ、2回のDMAT出動、30個班の救護班派遣を行いました。3月の救急車搬入件数は312件と過去最多でした。放射線被曝に関しては試行錯誤しながらでしたが、災害時医療に関しては大きな問題なく診療を行うことができ、これも職員全員がそれぞれの持ち場で自分の職務を適切に行った賜物です。22年度の決算も10年ぶりに総収支が黒字となりました。あらためて職員の方々に感謝いたします。現在の病院建物は老朽化と地震による部分的な損傷という問題を抱えており、今年度中に病院新築計画の認可が得られるよう頑張っていきたいと思います。

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